京都市 リンク集
国から政令指定都市の指定を受けており、全国の市で第6位の人口を有し(昼間人口では神戸市を抜き第5位となる)、京都府の人口の半分以上を占める。 都市雇用圏の基準では、京都市を中心点として京都府南部・滋賀県南西部に広がる京都都市圏(「京滋」とも言われる)が形成されている。また、1.5%都市圏の基準では、「京阪神大都市圏」の一角を担う。
平安時代に平安京が置かれた都市で、室町時代にも足利幕府が置かれた。鎌倉幕府や江戸幕府、安土桃山時代の政権も、ここを都として厳重に警備した。また、平安京成立後から明治天皇が東京に行幸するまでの約1080年、ほぼ全ての天皇が居住していた都である(→首都に関する議論は「日本の首都」を参照すること)。
平安時代以降、平安京の都市生活者向けの商工業が発達し、特に国内流通が活発化した江戸時代には、全国に製品を出荷する工業都市となる一方、数々の技術者を各地の藩の要請に従って派遣した。その伝統は現在も伝統工芸として残るのみならず、京セラや島津製作所など先端技術を持つ企業を初め、任天堂やワコールなど業界トップクラスの本社が集まるなど、現代産業を支えている地域の一つである。
日本の主要な都市の中では奈良市や金沢市などとともに、第二次世界大戦の戦災被害を免れた数少ない都市でもある。このため、古い史跡や町並み、文化などが数多く存在することから、日本で有数の観光都市・国際観光文化都市であり、国内外から旅行客が多い。
2008年7月28日、門川大作市長は同市の都市経営戦略会議で、2011年度の実質赤字比率が推計で27%に達する見通しを発表、財政再建団体への転落を示唆した[1]。
京都府の南部に位置し、市内を賀茂川(途中で高野川と合流し、鴨川と名前を変える)、桂川、宇治川などが流れる。京都盆地(山城盆地)の中に位置しているので、瀬戸内海式気候と内陸性気候を併せ持ち、夏と冬、昼と夜とで温度差が大きい。又、盆地の中でも冬季は北の方ほど寒く市内中心部では降雪がなくても左京区の岩倉や北区の原谷では積雪や氷点下になっている事がある。
三条大橋(対岸が河原町方面)
市街地は中北部の中京区と中南部の下京区、特に四条河原町(四条通と河原町通の交差点付近)は繁華街として知られる。
中心市街地は東西・南北に通じる道路によって碁盤の目状に区切られており、市内の通りには名前がつけられている。ただし、これは中心部に限られる上に、途中で途切れる・通りが合流する(多くの場合は新しい通り名になる)・カーブが存在するなど、画一的にそうなっているわけではない。また、ごく一部に東西あるいは南北の方向ではない、斜め方向の通りも存在する(たとえば河原町通の四条以南・後院通など)。
京都市街地、中京区・上京区あたり、右手は京都御所、左京区霊山護国神社より
祇園甲部、京都市左京区
中心市街地(主に上京区、中京区、下京区)では、所在地を町名だけ(町名+番地)で表現することは極めて稀で、町名と併記する形でこの通り名を用いて表す[2]場合が多い。建物が面している通り名を先に言い、近くの交差する通りから、北に行くことを上る(あがる)、南に行くことを下る(さがる)、東に行くことを東入(ひがしいる)、西に行くことを西入(にしいる)と表現する[3]。例えば、京都市役所の所在地である「京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地」の場合は、寺町通に面し御池通から北に行った場所を表す「寺町通御池上る」を、町名である「上本能寺前町」に冠して示している。この表現は1889年の市制施行時から市域であった場所において、住民基本台帳、不動産登記など公的な表記として用いられるものである[4]。
なお、京都市内でも中心市街地以外や、現在中心市街地と一体となっているが市域拡大によって編入された区域(西ノ京、壬生、聚楽廻など)では、通に名称があっても住民基本台帳における住所、不動産登記上の場所を町名+番地だけで表す。
交差点は交差する2つの通りの名前で呼ばれることが多い。例えば、四条通と烏丸通の交差点は「四条烏丸」、河原町通と丸太町通の交差点は「河原町丸太町」である。どちらの通りを先に呼ぶのかということについて定説はないが、多くの場合、南北の通りを先に、東西の通りを後にする(東西の通りが主要な通りの場合など、例外も多い)。 一方で、通り名をもつ2つの道路の交差点であっても、例えば、四条通と東大路通の交差点は「祇園」、西大路通と丸太町通の交差点は「円町」、今出川通と東大路通の交差点は「百万遍」であるなど、通り名の合成で表さない場合がある。比較的最近に作られた通りに多い。また、1本の通りの一部分だけを違う名前で呼ぶ場合もある(例:大和大路通の縄手通)。
なお、「通り」の「り」を送り仮名としてつけないのが正式な通りの名前である。
幕末に政治の中心地となった京都は人口が膨れ上がりかつてない活況を見せたものの、禁門の変で街の多くが焼けたのに加え、明治維新後に皇室・公家の大半が東京へ移り住んだため、一転急速な衰退を見せた。そのため、京都府知事(市制施行当初は、京都市長も兼任)などから産業の振興を呼びかける声が上がり、琵琶湖疏水といった疏水の建設と、疏水を用いた日本初の水力発電、更にその電力を用いた日本初の電車運転(京都電気鉄道、後の京都市電)などの先進的な施策が実行された。これらが功を奏し、人口は明治時代中期以降しばらく、毎年1万の増加を見せるようになった。
人口の増加と市街地の拡大に対応し、明治末期から道路拡築および市営電車敷設、第二疏水開削、上水道整備からなる「三大事業」が行われた。それに続く形で市区改正道路(都市計画道路)事業と市電の敷設が進められ、昭和初期には伏見市(現在の伏見区中心部)など周辺の市町村を編入し、ほどなく人口も100万人を超えた。
第二次世界大戦中、六大都市(東京・大阪・京都・名古屋・神戸・横浜)の中では唯一空襲の大きな被害を受けなかったこともあり、日本の都市としては珍しく戦前からの建造物が比較的多く残されている。なお、これは歴史遺産保護のために大規模空爆を受けなかったという説がある一方で、原爆攻撃の候補地となっており、その成果を知るために米軍が最後まで街を温存したという説もある。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』